今村仁司『近代の思想構造 世界像・時間意識・労働』人文書院・1998年




目次を見ても分かるが、本書では、「近代」を構成する様々な特質が取り上げられている。そして、その特質から構成される思想の体質を「近代の思想構造」として分析されているのだ。

氏は、近代とは労働の時代であり、近代社会とは労働社会であるとする。そして近代は、17世紀の絶対王政期以降から始まり、その後200年周期で変遷しているとする。つまり近代は、

①絶対王政、重商主義の17・18世紀(帝国の崩壊と近代国民国家の形成期)
②フランス革命~現在の19・20世紀(産業資本主義、ブルジョアジー覇権期)
③これから

と区分され、①から②への変遷の過程で、生産主義的な精神構造が構築されるということを、ヘーゲルやマルクス、ウェーバー、ハイデガーなどの諸思想家を持ち出して、説明している。

③のこれからの近代には、ポストモダンの議論をもとに、能動的ニヒリズムをキーにすることが述べられていたが、あまり自分の中でスッと入ってこなかったので割愛。

共感したのは、本書で扱う「思想」は、いわゆる僕たちが「思想」と聞いてイメージするような、理論的に表現される思想のみならず、人々のなかで当たり前になってしまって「倫理的雰囲気」になってしまっているような思想も包括されているということである。

それは今村氏が、諸時代に生きる頭の良い思想家たちの諸思想もさることながら、実のところ、諸時代の諸社会の中で人々が無意識の間に駆動させているような思想こそが重要であり、着目すべきではないかという問題意識をもっているからといえる。

その点は、僕も同意見だ。特に現在のように、web2.0の集合知が重要性を帯び、専門家や知識人の考え方や思想が相対化されている状況からしても、今村氏の視点は歴史を見るにおいて必要とされるであろう。

まぁ、そうした視点は、たとえば民衆思想への着目という点からすると、日本では色川大吉氏や鹿野政直氏、安丸良夫氏などによる民衆思想史研究があって、その歴史はそれなりに長いのだけども・・・。


本書の目次は次のとおり。参考までに。

〈プロローグ〉
Ⅰ近代とは何か
はじめに
 1近代性の構造  
  1自己との関係(対自関係)/2他人との関係(対他関係)/
  3自然と人間との関係/4時間の意識/5機械論的世界像
 2近代の世界像とその批判  
Ⅱ「考える」とはどういうことか
  はじめに  
  1 ヘーゲルとビルドゥング
  2 マルクスと「ヘパイストスのハンマー」
  3 ニーチェと「ハンマーで考える」  
  4 ベンヤミンと目覚めること  
  5 現象学と「エポケー」
  6 驚きと思考

第一章 機械としての世界=機械状組織
  1 機械的心性の形成  51
     科学革命と近代哲学/社会的要因
  2 機械‐組織
     近代国家/ホッブズとアダム・スミス
  3 管理する機械  
     近代のデーモン/社会管理機械/企業管理機械
  4 技術と人間の関係  
     フリードマンの研究/フリードマンとハイデガー/主人と奴隷
第二章 支配の方法=主人と奴隷
  1 方法的精神を要求するもの 
     二重革命
  2 自然の征服
     ベーコンの方法論/デカルトの方法
  3 主と奴
     自己意識/欲望/主と奴
  4 呪術からの解放  
     オデュセウスとセイレーンとの対決/世界の二重性
  5 世界実験/世界経験
     世界実験/世界経験
第三章 交通としての社会=市民社会
  はじめに
  1 政治の構築
     暴力的死からの脱出/虚栄心/理性の要請/社会契約論
  2 欲望による「経済」の構築  115
     ヒュームの国家論/国家の市民社会化/欲望による経済の構築
  3「法」による「人格」の構成  125
     目的の国/快感原則と禁欲のエートス

第四章 労働と倫理と労働社会の到来
  1 労働の突出と優位
     労働表象の転換/労働の突出
  2 禁欲倫理の成立  
     西欧近代/キリスト教の禁欲倫理/世俗内禁欲/自己規律(自己審査)/
     形式としての労働
  3 方法的ニヒリズム  
     二つの方法主義/理性の禁欲主義/欲望と芸術の否認/ニヒリズム/人間の死
  4 法と契約
     約束と忘却/刑罰/自己規律と自己立法の起源/自己犠牲/
     自律と他律/欲望と暴力
第五章 近代の時間意識=企てる精神
  はじめに
  1 先取る意識
     伝統の拘束/商業と未来の先取り/教会の時間と商人の時間/
     時間の計測/鐘と時計
  2 企画
     モダンの意識の芽生え/巨人と小人/進歩の意識/企てと未来
     意識/認識/道徳/企てとしての道徳
  3 企業  
     企業の精神/既成軌道の打破/異物としての企業家
  4 企てる精神の効果  187
     ユートピア/革命/全体主義的管理
〈エピローグ〉
モダンの横断
  1 エポックとしての近代 
     ポストモダン論議について/三つの近代/予兆としての六八年
     /近代の再記述/トランスモダンの先駆
  2 雑種の精神
  3 貨幣について
  4 セクシュアリティについて
  5 追憶と追悼
  6 歴史の終焉について
  7 人生の日曜日
  8 空間の再発見  
  9 技術時代と遊戯の精神 
  10ニヒリズムとシュールユマソ
あとがき


まさに、圧巻だった。



マイケルジャクソンの『This is it』を見てきた。


僕は小学校の頃、マイケルジャクソンが大好きだった。今にして思えば、なかなか本物を見る目のある子どもだ。


1987年来日のコンサートビデオは、当時小学校2,3年生のはずだが、見まくっていた。
なぜか、バックダンサーの踊りをマスターしようとしたのを覚えている。
だから、"This is it"の中でのダンサーの振り付けを、ほぼ知っていたことは、自分自身、非常に驚いた。あれから20年以上経つというのに、覚えているもんだなぁ。

また、ドームでのコンサートにも行った。
小学校の低学年だったと思うから、あれは88年の「バッドツアー」だったのだろうか。
詳しいことは覚えていないが、僕は椅子の上に立ってマイケルを見ていたことは忘れていない。

あれだけマイケルジャクソンのことが好きだったのに、中学に入って以降、パタリと熱が冷めた。

でも、マイケルの死以降、いろいろな場面でマイケルの映像を見て、マイケルの凄さを再認識した。


そして、"This is it"。



よかった。

マイケルのダンスや歌のうまさ、かっこよさは、言うに及ばない。

衝撃をうけたのは、マイケルの人間性だろうか。
誰とでも、気さくに話しているマイケルの姿をこれまで想像したことがなかった。

それでいてプロ意識の塊。どんなことも妥協せず、最高のステージを作り上げるために、みんなと力を合わせる。でも決して独りよがりではない。

コンサートに携わっているある人が、マイケルのことを、「フレンドリーでいて謙虚だ」と評していた。まさにそのとおりだと思った。


いろいろな場面で、衝撃を受けたし、いろいろな場面で、目頭が熱くなった。
なぜかわからないけど、心がいっぱい揺れた感じがした。

最後は、泣いた。

最後は、映画館にいた観客全員が、エンディングロールすべてを見尽くし、そしてあつい拍手をマイケルに送った。
「マイケルありがとう!」と叫んでいる人もいた。

本当に見に行ってよかった。


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マイケル熱が冷めず、87年のコンサートビデオを見ている。
やっぱ、凄い。圧巻だ。

そして思い出した。
そういえば、デンジャラスツアーのときのTシャツが家にあったんじゃないかと。
思い出グッズ的に取っておいたはずだと。



そして確かに、箪笥にあった。
すっかり古くなってしまったTシャツだけど、あって嬉しかった。


NHKの『シリーズ未来をつくる君たちへ 勉強ってなんのため? ~立花隆が語る「緒方洪庵」~』を興味深く見た。


かつて司馬遼太郎さんは、日本には明るい未来がやってくると言った。若者たちは、よき社会の中で、よりよく生きることができると、司馬さんは(期待をこめて)考えたのだ。

しかし、立花さんは、そんな司馬さんの描いた未来像は、現段階において到底訪れる兆しはないと、中学生に熱く語った。「これからの日本社会は、本当に暗いんだぞ!」と、今の中学生にはっきりと言い切ったのだ。

そして、立花さんは、今後を担う中学生に対し、インターネットと英語の重要性を強く認識し、それをフルに活用して生きていくようにアドバイスしていた。


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僕は基本的に立花さんの言ったことには、賛成だ。最近の日本に関するニュースは、本当に暗い。嫌気がさすようなニュース満載だ。

だから、現実から目を背けるような理想論を並べてみても意味がない。これからを担う若者に現実をきちんと認識してもらい、未来を見据えて欲しいという立花さんの主張は正しいんだろうなと思う。

ま、とはいえ、中学生がどこまでそれを理解できるかは不明だけど。やはり、人間、一程度の経験や見識が深まっていくことで、物事を知ることができるということは多々あるわけだ。

別に中学生が無知とか言いたいのじゃなくて、ある程度年をとってから気付くことってたくさんあるってこと。あの時、あの人が言ってたのは、こういうことかって、後で気付くことって多々あるわけで。

だからきっと、僕も立花さんが本当に言いたいことのすべてを理解しているとはいえないだろうと思うし。

要するに、”実感”できるかどうかってことかな。

だから、きっと立花さんの講義を聞いた中学生たち(や僕)は、いつかきっと、立花さんが本当に言いたかったことを”実感”するときがくるんじゃないかなと思う。

いや、正確に言えば、立花さんが言いたかったことはこういうことかという解釈を、何らかの経験を通して実感するということかぁ。うーん。面倒くさい言い方だ。ま、いっか。


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でも、ひとつ思うのは、政策というのは、立花さんや他の多くの人々が警鐘を鳴らすような未来像をどう変えるかという観点からたてられるべきではないかなぁということ。

たとえば、立花さんや梅田望夫さんなどがいうように、これからはインターネットは必要不可欠。”あちら側の世界”と”こちら側の世界”の両者でうまいこと生きていかねばならない時代である。ネットさえあれば、誰でもが表現を自由に行うことができて、これまでの権威だなんだという秩序が脅かされていくようなそんな時代を迎える。

そんな大きな大変革を迎える時代に現在我々はたっているという認識に立ったら、今後なにが政策に重きをおかれるべきかというのは、自ずと見えてきてよさそう。

なのに、子どもをもつ家庭にお金をあげる、とかなんとか。うーん。経済不振で、お金がないからお金を上げる。言っちゃ悪いけど、すごい短絡的。

それなら、子どもにあげるという点では、これからのネット時代を見据えて、子どもに早くからコンピューターに触れさせておこうということで、子どもを持つ家庭にコンピューターと、ネット環境を整えてあげるみたいな方が、将来的に非常に有意義だと思うのだが。

ま、僕は政治家じゃないので、とやかくはいえないけど。
でも、選挙には行ってるから、少しくらい言ってもいいかな?


「タダコピ」。中国進出か・・・。すごいなぁ。いずれ、タイにも来るのかなぁ。


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「タダコピ」とは無料でできるコピー機のこと。
大学構内に設置されたこのタダコピを使えば、学生は無料でコピーができちゃうのだ。だから、タダコピ。

コピー代がタダとなるのは、コピーの裏面が広告媒体になっているからだ。企業がコピー裏面に広告を載せるかわりに、コピー代金をもつというわけである。

広告を出す企業にとっては、比較的安価で、学生の若者世代をターゲットにしぼった広告(たとえば旅行、成人式用の着物、リクルート関係などなど・・・)を発行することができる。

そして、学生にとっては、何かと必要となるコピーを無料で行うことができる。

だから、タダコピは、どちらにとっても非常にお得で、WIN-WINの仕組みになっているのである。

そして、もちろん、”学問の活性化”という観点からすれば、大学にとっても良いシステムとなっているといえよう。

2006年に慶応大学と法政大学に初めて設置されて以降、どんどんとその設置場は増え、現在では全国で50以上の大学に導入されている。

そして先月、中国の復旦大学および松江大学構内のコンビニエンスストアーにも導入されたのだ。

ついに世界進出。

ということで、ここタイにも来ないかなぁと期待してしまう。

しかし、タイのコピーは、基本自分ではやらない。あくまでも、コピーをとってくれるお店や人に渡して、やってもらうのが基本だ。

それが、至極、便利。「本、全部コピーお願いします」とか「ここからここまで、お願いします」などと預ければ、もちろん混み方しだいだが、基本的にすぐに仕上がってくるのだ。

これに慣れてしまうと、日本のように自分でコピーをするのは億劫になる。

だからもし、タダコピをタイに導入するのであれば、そうしたタイのシステムを崩さないで上陸して欲しいものだが、きっと難しいであろう。

タイにおいて、タダコピを使って自分でコピーをとるか、それとも、人に頼んでコピーをとってもらうか悩みどころだ。なにしろ、タイのコピー代は1枚1.3円くらいだからねぇ。時間を買うという意味で、人に頼んでしまうんだろうな。

ちなみに、このタダコピという画期的なコピー機をつくったのは、株式会社オーシャナイズという会社。社長はなんと25歳という若さらしい。うーん。すばらしい。
まさにW・チャン・キム/レネ・モボルニュ著 有賀 裕子訳『ブルー・オーシャン戦略 競争のない世界を創造する』(ランダムハウス講談社 2005)の世界だなぁ。


コピー代1.3円/枚のことを、あーだこーだと考えている僕と、何たる差だろう。なんだか、悲しくなってきた。



    【遺跡入り口。石と石の間に入り込んでいた子猫。しゃべりかけると揃ってニャーと泣く】



ローイエットにしばらく滞在して、史料を集め回る予定だったのに、急きょバンコクにて予定が入ってしまった。そこで、残念だがローイエットを後にして、ダッシュでバンコクへ戻ることに。

とはいえ、用事は明日の朝から。
今日は夜遅くバンコクに着いても構いはしないということで、民衆運動があった場所とプラゴーナー遺跡だけでも見に行くことに。

そこで、ローイエットのお世話になっている人に、急きょバンコクへ帰らなくてはならなくなった旨を伝え、家を後にした。また、近いうちに来ることを約束した。

特にKさんの娘さんには誕生日には絶対に戻ってきてほしいなぁと、ボソッと言われたので、そのときにはまた是非来ようと決めたのだった。

そして、ベッドに関しては、本当にごめんなさいという気持ちでいっぱいだった。


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遺跡も民衆運動があった場所も、バンコクとは逆方向にあたったのだが、そんなことはお構い無しに、車を走らせた。

まずは、民衆運動のあった地へ。(といっても、その道すがらで、目的の遺跡を見かけたのだが)

民衆運動があった村の付近に到着するも、肝心の村の所在が分からない。

そこで、困ったときの役所ということで、情報を収集しに。いくらかの資料を得ることができ、また村の位置も把握した。

役所から村へ車を走らせ、到着した。予想通りとはいえ、当時を思い起こさせるものがあまりに何もなかった。本当にここで、何百という人々が立ち上がり、政府に対する反抗を見せたのか?というほど穏やかで、イサーンではどこでも見受けられるような村だった。

何人か村の古老に尋ねてみるも、当時のことは知らないという回答。

これは、今度まとまった時間をとって、誰かしらの紹介のもとで、きちんと聞き取り調査に来なくてはだめだなと考え、ちょっとの滞在で村を出ることにした。

史料を読むだけでは、どうしてもイメージがわかないから、今回実際に現地に来たことは決してマイナスではないだろう、などと思いながらバーミー(タイ風ラーメン)をすすった。
なぜだろうか、イサーンで食うバーミーはバンコクより安く、そして異常に美味に感じる。

気分的なものか?


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そのあとは、プラゴーナー遺跡へ。




ここは、マハーサラカム県の変わった村祠と関係する遺跡だ。そのため、興味があってきてみたのだが、驚いたことに、かつてKさんに連れられてきた遺跡だった。

ということで、どちらかというと懐かしいなという感覚で、遺跡を見たのだった。

遺跡は、11世紀ころに建てられたとされる。クメール様式。

当時のまま残っているが、やはりところどころ痛んできてはいるようだ。











遺跡の細かいことと、マハーサラカムで見た村祠とのことについては、調べがついた際に、記すことにする。


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僕は遺跡を後にした。

すると、遺跡の周りには、サルがウジャウジャいて、僕の車の上にもかなりの数、のぼっていた。一匹にいたっては、ラジオのアンテナをガシガシと噛んでいた。

また、車の周りには、観光客にサルのえさを売り歩くおばちゃんたちが、5,6人いた。タイ人ならば、タンブン(徳をつむ)のためにえさをおばちゃんたちから買って、それをサルにあげるのだろうが、僕は車に悪戯をしまくっていたサルにわざわざえさをあげる気にならず、また、実はちょっとサルが襲ってくるのが怖かったので、急いで車を出した。

車の中で、おばちゃんたちには悪いことをしたなと、ちょっと反省した。
サルに対しても大人気なかったかもしれない。


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そして、ここから6時間か7時間だろうか。田舎道を延々と、1人、車を走らせてバンコクに戻った。もちろん、”くりぃむしちゅー”で。





穴のあいたベットをしばし呆然と見つめた。

酔っ払ってベッドの端に手をついた瞬間に、ドカーンと穴が開いたのを、ありありと思い出すことができた。

役所の前で朝ごはんを食べているとき、Kさんにお詫びした。



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Kさんは、村内において重要なポストについている。

そんなKさんが、今日は村のさまざまな委員を決める寄合があるから、見てみたらどうだと誘ってくれたので、行って来た。

朝、9時。続々と村人が、会議の行われる部屋へとやってきた。



そして集まった村人たちは、議論される話題が書かれた書類に熱心に目を通すのであった。


議論は、kさんの司会進行によって進められた。




ホワイトボードにいろいろな委員名が記載され、それぞれの仕事内容をKさんが説明し、それに対し、村人が質問するという流れで議論が進んだ。

ただし、このときの雰囲気は和気藹々であり、べつに堅苦しいものではない。発言したい人は自由に発言し、時にはおちゃらけたことを言って爆笑をさそう。いや、むしろ、おちゃらけた発言のほうが多いかもしれない。(こんなことを言っては失礼か)








そして、最後に、それぞれの委員に適切だと思われる村人が、推薦、あるいは自薦により選出されていくのである。”村の変わり者”的オヤジが、すべての役職に立候補したが、そのすべてが村人たちに却下されていた。彼は、「えへへ」って感じでおちゃらけて笑ってはいたが、瞳の奥は泣いていることを僕は見逃さなかった。



そして、今後の村の仕事を行う役員が決定し、前に並び、承認されたのであった。

寄合には、テレビクルーも入り込んでいた。その中でみなワイワイ、あーでもない、こーでもないと、約3時間、非常に盛り上がっていた。

また、村の政治に対する村人の意識の高さみたいなものも、少し垣間見れたと思う。

楽しく、政治参加。うーん。悪くない。



非常に興味深いお話を聞けたお寺を後にし、村に再び戻る。

そして、ローイエット県のお世話になっている家にいかねばならぬ旨を、村長や家主に告げて、村を出発した。また、来れる機会があればいいなぁ。

マハーサラカム県はローイエット県と隣接しており、目的地もそう遠くはなく、2~3時間で到着することができた。


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久しぶりのローイエット。

僕が昔から本当によくお世話になっている家に久しぶりに到着すると、皆が本当にあたたかく迎えてくれた。



近所の人たちは、遠くから「リョウタ、久しぶりだな。帰って来たのか~」と声をかけてくれた。

集まってきた子どもたちは、皆、大きくなっていた。

以前来たときには産まれたばかりだった2人の赤ん坊は、よちよちと歩くまでに成長していた。(ま、2人は僕を見て大泣きしたが)

いつもお世話になっている家の主の奥さんは、「ぜんぜん来ないから、もう忘れてしまったのかと思ったよ、息子が全く帰ってこないというのは寂しいもんだよ」といった意味の言葉をかけて、僕の久しぶりの訪問を非常に喜んでくれた。息子と呼んでくれるおばさんの気持ちがうれしかった。


みんなのあたたかい出迎えが、心にしみた。

なんか、異国にあるもうひとつの”家”のような感じで、ちょっと泣きそうになった。
(事実、僕は家主のおじさんのことを”お父さん”、その奥さんであるおばさんを”お母さん”と呼んでいる。実母とイサーンの母は何気に同い年だし)


ただいま、が言えるもうひとつの家が、イサーンにある。

一生大切にしたい。いや大切にすべき、大いなる財産だと思う。


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しばし、感動に浸っていると、子どもたちから遊びの誘いを受けた。昔、子どもたちと一緒によくやった、名前もないような遊びだ。

何もない村の、素朴な遊び。子どもたちは、何でも遊びに変える達人である。

子どもたちとさんざん遊んだ後、今度はいつも僕のお世話をしてくれるKさん(家主の娘さんの旦那さん。村でかなりの政治的主導権をにぎっているとともに、皆に愛されている、心優しい方。40歳くらい)が、焼肉に行こうと誘ってくれた。

ということで、KさんとKさんの友人(たまたま僕と同い年。TOKIOの長瀬さん的風貌。声が渋い。事実、昔はパッタヤーで歌手をやっていたとか)とで、車に乗って焼肉屋へ。

焼肉といってもそんなに高いものではなく、腹いっぱい食って1人約100バーツ(280円)といったところでしょうか。(もちろん酒無しの料金)でも、味は相当おいしかった。

Kさんは一切酒を呑まないが、友人は呑める人で、結局僕と2人でビール瓶1ダース以上をあけた。おかげで、ベロベロ。

ベロベロすぎて、誤って、ベッドを破壊してしまうが、爆笑。
そのまま就寝。


村長さんは、非常に親切にしてくれた。

いろいろと村内を案内してくれたあとには、食事を振舞ってくれた。
昨日の写真にもあったような村で取れたキノコをふんだんに使った炒め物や、ひき肉の炒め物、そしてもちろん、カーオニアオ(もち米に近い。手で食べる。ラオ系民族の主食)など、かなり出してくれて大満足。

そして、村長さんは、僕が文化的なことに興味があることを知ると、すぐに村で尊敬されている僧侶に連絡をし、アポイントをとってくれた。


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このときには、先生は先にバンコクへの帰路についており、また生徒たちもそれぞれにインタビュー調査があったため、1人、車でさっそく寺に行ってみることに。

案内されたとおり寺に向かうも、砂利道を相当に突き進む。本当にこの道で正しいのか不安になりながらも、言われた道を直進すると、かなり離れたところでお寺を発見。しかし、肝心の僧侶がいない。寺を掃除していた人に僧侶の所在を尋ねると、ちょっと出かけているので、午後に来いとのこと。

午前中に寺に訪ねて来いと僧侶は村長に言ったと聞いたのに、おかしいなと思ったが、いないとあればしょうがないということで、郡庁に行って情報収集に。マハーサラカム県で起こった民衆運動の情報を得るためだ。



しかし、あまり有力な情報を得ることなく、次にマハーサラカム大学へ。しかし、こちらは残念ながらお休み。


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ということで、いったん村に戻った。すると村長が、なぜ寺に行かないのだと問いかけてきたので、寺に行ったものの午後にならなくては僧侶が来ないといわれたことを告げると、そんなはずはないと、また電話を。そこで、僧侶は午前中ずっと僕を待っていたが、一向に来なかったと言っていることが分かったのだ。

村長さんは僧侶に嘘をついてしまったことになるから、急いでいくようにと僕に指示し、そこで、一泊させてもらった家主の案内のもと、急いで寺に向かった。

すると悲惨なことに、寺は僕が午前中に行ったところではなく、そのもっと手前にあったのである。あまりに森すぎて気付かなかったのだ。入り口は完全に森。寺も、寺という様相ではなく、森。いうならば、僧侶が森の中で生活しているという感じなのだ。

森の内部に入っていくと、僧侶を中心に村人たちがお堂を建てる作業をしていた。

その僧侶を見て僕は驚いた。

さすがに森の中で自然と一体となりながら修行生活を続けているからか、相当な人徳を備えているようにお見受けしたからだ。まだ50歳くらいのお若い僧侶なのだが、独特のムードを備えていた。

たまにタイでは、僧侶であるにもかかわらず、麻薬を使用して逮捕されたり、女性に手を出したりといった事件が取り沙汰されるが、ここで出会った僧侶はそんなこととは無縁の、日々修行に励む人徳者であると感じた。


僕は僧侶に会うや、その人徳に感服し、膝をついて遅れたことを詫びたのだった。


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僧侶は、快く森の中の自分の住まいに案内してくれ、そこでいろいろなお話を聞かせてくれた。

住まいといっても、家があるのではなく、一定の敷地の中に、雨にぬれないように天井だけがつくられているという、いわば完全なる屋外である。天井の下には、基本的には机と本棚、生活用品があるだけで、余計なものは一切なかった。本棚には様々な種類の本がぎっしりと詰まっていた。修行生活にとって不要なものは一切ない環境下で、目の前のすばらしき僧侶は、日夜、修行と勉強の日々を送っているようだ。


僧侶は、僕の拙いタイ語を必死に理解しようと努めてくださった。そして、その上で真摯にお答えをくれた。

お話は、僕の調べる民衆運動や、文化・伝統の問題だけでなく、仏教的な見地からの人生観や世界観の問題にまで、非常に幅広かった。高徳者の興味深いお話が聞けたのである。

気がつけば、2時間弱。森の中で、教えを受けた時間は、あっという間だった。

出会えてよかったと心から思った。


村の朝はやはり早い。
日の出とともに村人は活動を開始する。

僕も、村にてお世話になっているときは、自然とそのリズムになっていく。バンコクではこうはいかない。

朝から村をぶらぶら歩いていると、村内の放送が大音量で流れ始めた。どこの村もこんな感じで村内放送があるなぁと思っていると、しゃべっていたのはいつもお世話になっている大学の先生。


     【村の放送局】


先生は、自身や学生の紹介をして、皆をよろしく頼む旨を村内ラジオで放送した。
最後には、日本人である僕のことも紹介してくれた。

その放送を聴いていた村人たちは、「あいつのことじゃね?」といった感じで、歩いている僕を見、そして、イサーンの人々の優しさだろう。「ちょっと寄っていけよ」という声。いろいろなものを見せてくれる。


     【「ほら、見ていけ」と。村で取れる幾種類かのきのこ】


そして、これまたイサーン人の優しいところであろう。村長さん(まだ50歳前くらいの若々しい女性)が、村内をくまなく案内してくた。


     【地域特産品(OTOP)である布を織るイサーンのおばちゃん】



     【村内で飼われている水牛】



     【豚小屋】



     【生まれたての豚たち】



     【結構、竹が多い】


そんな感じで、村をぶらぶら歩いていると、放送を終えた先生と出くわした。先生は僕を珍しいもののところへ案内してくれた。それは、村にある祠。これまでイサーンの各村で見てきた祠とは少し異なっていた。

これまで見てきた村祠は、村の入り口にあり、その背後には木が多い茂っていることが多かったが、ここでは四辻に位置している。


     【四辻にある村祠】


また、2本の柱の中(写真向かって左側のほうは男性器をイメージした柱)に、仏像が安置されており、こうした形状は僕はこれまで見たことがない。








そして、その柱を取り囲むように、これまた男性器をイメージしていると思われる小さな柱が6本立てられていた。これが、どういった意味をもつのか、正確なところについては、説明をしてくれた村長さんも、また文化人類学を専門とする先生も分からないとのことでした。





タイ東北部イサーンの村祠については、岩田慶治先生や林行夫先生などが研究の中で触れているが、ここの村の祠の外観はこれまで僕は見たことがない。ヒンドゥー教の要素が強くあらわれているだが、その詳しい理由は、今回は分からなかったので、非常に残念。

ただ、ここの村祠は、隣県ローイエットにあるグープラゴーナー遺跡から分祀されたものであることがわかり、後日そこに行くことに決定する。

ローイエット県に行く理由がまたひとつ増えた。


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ちなみに、タイ東北部の村祠は、赤木攻先生によると、村の草分けを祀るものであり、かつては村長を決めるなどといった、村にとって非常に重要な取り決めがある際には、必ず祠に伺いをたてたという。(赤木攻『タイの政治文化』勁草書房1989)

そして、現在においても、村祠はイサーンの人々にとって重要なものとして位置づけられていて、たとえば旅に出るときは祠に無事を祈願し、また旅から無事に戻ったときにも挨拶に行ったりする。

また、年に1回、雨季の目前に、この村祠を囲んで盛大な儀礼が行われる。儀礼の目玉は、一羽の鶏の首ののどの腱を調べ、その年が豊作か否かを占うというもの。腱が曲がっていれば、稲穂が頭をたれる姿が連想されて豊作、腱がまっすぐならば逆に不作という占い結果が出るのである。その儀礼は、リアンプーターと呼ばれ、様子はこんな感じである。



この映像でわかるのは、この年は豊作の占い結果が出たことである。実際豊作だったかどうかは定かではない。




異国の地を車で走るのは、やはり気持ちがいい。



先日、タイ東北部のちょうど中央部にあたるローイエット県、およびマハーサラカム県に1人でドライブしてきた。ドライブと一口に言っても、全行程にして1500㌔近く走行したので、ま、あんまり気楽な感じではなかったかもしれない。

この2県は、僕が今調べている民衆運動が起こったところであり、その実際の地点を見たかったというのが、今回の旅の大きな理由だ。


また、ローイエット県には、もうかれこれ3年の付き合いになるだろうか。いつも、非常にお世話になっている家が県内にあって、そこに久しぶりに挨拶に行こうというのも大きな目的であった。村の子どもたちにも長いこと会っていない。



旅のプランとしては、まず、マハーサラカム県のとある村に向かい、そこで、バンコクから調査にきている大学の先生とそのゼミ生たちに合流し、1泊をともにし、そのあとで、ローイエット県のお世話になっている家に行くことにした。

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バンコクでレンタカーを借り意気揚々と出発。
(ちなみにレンタカー代はプロモーションで1日990バーツ(約2700円くらい)だったかな)

そして、危険な走り満載な車があふれる恐ろしいバンコク中心部の道路を抜け、ドンムアン空港を過ぎたあたりで、「音楽でも」と宇多田のCDをオーディオに差し込んだ。しかし残念ながらエラーの文字。違うCDを何枚入れても同様。これからマハーサラカム県まで、約500キロ、無CD。

ただ、友達から受け継いだi-podを持参していたことが救いだった。これがなかったら、運転するとすぐに睡魔に襲われる特徴をもつ僕は、どこかしらで居眠り事故を起こしていた可能性が高い。そういう意味では、友達は大いなる恩人である。

とはいえ、私のi-podは”くりぃむしちゅーのオールナイトニッポン”のポッドキャストのみ。ということで、全行程、ずっと、くりぃむしちゅー漬けだった。だが、「おそらく、おそらくだが、今現在、タイの田舎道をくりぃむしちゅうのラジオを聴きながら走っているやつは他にいないだろうな」と思うと、心なしか晴れ晴れとした気分になり、意気揚々とマハーサラカム県に向けて疾走したのだった。何事も、1人しかやっていないと思うと気持ちがいいものか。


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マハーサラカム県へは、日本の高速道路のように、一切信号のない田舎道を走るのだが、怖いのはコラート(ナコンラーチャシーマー)を過ぎたあたりから、中央分離帯がない場所が多く存在すること。お互いに時速100km以上出しながら、すれ違うのは非常にスリリングなものだ。


なんだかんだで事故することなく(勿論いいことだ。ちなみに警察の検問は受けた。全2回)、夕方、無事マハーサラカム県に到着した。しかし、県内に入るも、肝心の目的地である村がなかなか見つからない。郡と区までは、持参した地図でなんとか把握できるのだが、村までは記載されていないのだ。

そこで、道行くイサーンの人々に村の場所を尋ねるも、これが聞く人聞く人、皆答えが異なる。あっちこっちたらい回しにされて、ちょっと不安に。というのも、暗くなってしまうと、道には街灯も何もないので、村にたどり着くことは相当の困難を伴うことになるからだ。

そこで、道を歩いている人だけでなく、各家の中にいる人にも尋ねてみることに。すると、さすがに優しいイサーンの人々。たくさんの人たちが集まりはじめ、ああでもない、こうでもないと”寄り合い”が始まる。

激論の末に出された結論は、ばっちり正解。おかげで、ついに無事に目的の村に到着したのだった。村はかなり奥に入ったところで、きっと彼らの「会議」がなかったらそこにたどり着くことは困難だったろう。本当に感謝である。



村にたどり着いたことに一番驚いていたのは、待っていた先生だった。先生はまさか、僕が1人で運転してくるとは思っていなかったようで、「こんな奥地まで、その地図だけで来るとは、すごいっちゃすごいけど、ま、一言で言えば無謀だね」って。

ということで、その夜は、先生やゼミ生たちとともに食事をし、その後、かなり大きなホテルの下にあったカラオケに行って、そこで生徒たちはガンガンに唄っていた。あまり酒を呑む生徒がいなく、その点は寂しかったのだが、ま、でも素敵な夜を過ごしたわけだ。

そして、村人の家に帰って皆で雑魚寝。就寝。




共同体に住む人々が継承する儀礼や祭礼は、その土地に住む人々の心の表現だ。




儀礼の説明の前に、今日詠んだ白石和文『この世の全部を敵に回して』について。


   

”・・・・私は「死」を考えることはそのまま「神」を考えることだと思っていますが、千年前、二千年前と比較して、現代人が神をいかに安易に考えているか痛感しています。誰もが、過去の人々は迷信と俗説に怯え、かつ踊らされていたと馬鹿にしていることでしょうが、私からすれば、よほど怯え踊っているのは現代人のほうです。いまの人ほど不可知なもの、超自然的で優しげなものにすぐコロッといってしまう人間はかつていなかったのではないでしょうか。そんな気がします。自分の死を真剣に考えなければ、神ほど通俗的になり得るものもありませんよね。・・・・・・”(P3~4)


この一節が妙に印象に残った。”神の通俗化”という言葉がとてもおもしろいと思う。



僕も、「死」の問題に関しては、本当のところ日々の中で強く意識し、考えなくっちゃって思ってはいる。なにしろ死というのは、遅かれ早かれ必ずやってくるものであり、その死を目前に控えたときに、めちゃくちゃ動じたり、送ってきた人生に後悔をしまくったり、といったことがないように、死に関しての心構えや、精神を鍛えることが必要だと思うからだ。そしてなにより、「死」を考えることは、つまり「生」を考えることにつながると思うのだ。

とはいえ、やはりなかなか難しいもの。ついついサラリと月日は経つものである。

いや、というよりも自分の中で死をリアルに感じるのが怖いから、無意識的に考えないようにしているというのが正直なところかもしれない。

それでも、なんとか死というものについて、自分のなかで十分に納得のいく考え方が欲しいなとは、常々思っている。

だから、僕はいろいろな人々の死生観にすごい興味がわく。そして、いろいろな地域の、いろいろな人々の死生観を反映するような論理や儀礼・祭礼に着目するのだ。



ということで、今日紹介するピーファー儀礼について。これは、今年の3月にタイの東北部のとある村で見た儀礼である。

この儀礼は、ある村人の病気を治すために、特別な踊りを舞って村の祖霊を呼び寄せ、快癒を願うというもの。村人たちのお話によると、村の祖霊たちの霊が、この儀礼によって村に下りてきて、その霊たちの特別な力によって病気が治るというのだ。

僕がたまたま今年3月に見たこの儀礼は、2年目のものだった。どういうことかというと、実際に病気になった人を回復させるために行われた儀礼は去年のことで、それが第1回目。

その後その病人は、無事に回復したのだが、この儀礼の決まりとしては、翌年以降も1年に1回、全部で3回はその儀礼を行わなければならないのである。それによって祖霊に対して、病気平癒への感謝の意を表明するのだ。だから来年もこの儀礼は行われるであろう。

さて、儀礼の模様については、百聞は一見にしかずってわけで、僕が説明をするよりも映像をご覧いただいたほうが早いかと思う。






「ケーン」という、日本でいえば笙のような楽器の音色にのって、儀礼を行う女性たちがトランス状態になったり、ぐるぐる依代のまわりを踊りながらまわっている模様がお分かりいただけるかと思う。









この儀礼を見ていて印象的だったのは、途中、ベロベロに酔っ払った男性が女性たちの舞う”場”へと侵入したときに、トランス状態に入っていた女性がその男性の背中をバンバンとたたいたところ。

男性は何らかの儀礼のタブーを犯したようだった。

女性たちが舞う場は、結界が張られた空間になっていて、その場には、男性としてはケーンの演奏者のみが入っていた。よって、どうやら、そんな神聖なる場に、観客であるはずの男性が入り込んだことがおそらくタブーだったのであろう。また、何かよくないことを言ったようでもあった。

いずれにせよ、この儀礼における女性やその場の神聖さが現れているような感じがした。村人の話によると、儀礼にたずさわる女性たちは、世襲制に基づいて選ばれていることが多いとのこと。ただし、もしも娘がいない場合には、親族のいずれから出すこともあるそうだ。

この儀礼は夜の8時くらいから始まったのだが、終わるのは朝5~6時。夜中に入って、僕は少しのつもりで眠ったらすっかり儀礼が終わってしまっていて、非常に残念な思いをしただった。来年、もう一度行ってみようかなぁ。


こうした病気や祖霊にまつわる共同体儀礼というのは、その土地の人々の死生観のひとつを反映していると思う。非常に興味深い。



【今日読んだ本を一応記しておきます】
・白石和文『この世の全部を敵に回して』小学館 2008年
・石澤良昭編『タイの寺院壁画と石造建築』めこん 1989年
最近、タイでの生活が日常化し、タイで見るもの聞くことの何もかもが、結構当たり前になってきちゃいました。そのときには何かと感動して、特別だと思ったことが、時間とともに慣れてきてしまった、って感じなのです。

だったら何かしらにかたちとして残しておかねば、いや残しておきたいという気持ちから、ブログを始めてみることにします。

ま、いつまで続くか分からないし、そんな深い内容も記すことができませんが、適度に記していきたいと思います。

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さて、最近気に入っているのが下にアップしたCM。
タイの生命保険のCMなのだが、これが泣ける。

このCMが流れるたびに、たとえなんらかの作業に追われていたとしても中断して、テレビに釘付けになってしまう。



子どもたちの歌唱に、だんだんと大人たちが言葉を失い、動きが止まり、見入っていく様子をみると、非常に泣けてくるのだ。

特に、撮影スタッフの表情が印象的かなぁ。